KAWAGOE NEW SOUNDS

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川越ニューサウンドが選ぶ2010年代の邦楽アルバム ~ 勝手に寄稿のコーナー 3・2010年代の邦楽アルバム・ベスト100(ミュージックマガジン2021年3月号)

ミュージック・マガジン 2021年 3月号
春うらら、死に際のアノタちゃんことレーベル代表・庭野です。さて久しぶりに紙媒体で便乗できそうな特集を見つけたので、勝手に私の選んだ2010年代の邦楽アルバム・ベスト17をここでレビューしてみたいと思います。レーベルのHPであると同時に代表のプライベートブログとしても機能するこのはてなブログをご愛顧いただいている皆様にはお馴染みの、偉そうに御大層な御託が並んだ記事でございますが、ちゃんと本誌も購入しましたので、さしずめ井筒監督の「こちとら自腹じゃい!」的な感覚で、あぁ、またアノタの人が何か言ってるなあくらいの感覚で斜め読みしていただければ幸いです。尚、本誌では投票数によってランク付され、各選者が30作品選出するという形式でしたが、私の場合さらに絞り込んで、今後聞けなくなると困る、くらいの作品を17枚(中途半端)ここにリリース年順に紹介させていただいております。後で思い出したり、思い直したものが出てくればまた補填させていただきます。


ゆらゆら帝国「空洞です」2010
空洞です 

バンド最終作にして最高傑作となった本作はメンバー自らがもうやり残したことはないと言えるほどの満足感も相まって解散のニュースにもさほど驚きはしなかったが、振り返ると2010年は音楽にとって多くの消失点をもたらした1年だった。これを振り返るたびに美術家・劇作家である飴屋法水が2005年に行った「バ  ング  ント展」で自身の肉体を使って予見した消失の美学を想起することは方々で口にしたかもしれないし、今初めて口外したかもしれない。


サンガツ「5つのコンポジション」2010
5つのコンポジション

2012年に今後グループの作品に発生する著作権を放棄すると宣言したサンガツのそれ以前の最後のオリジナルアルバムはゲストを加えたギター×2、ベース、ドラム×4という編成で制作された即興と作曲の間を、デレクベイリーとグレンブランカの間を行き来するような、そして楽器と楽器の間を何かが行き来するような空気や距離感さえも音響として楽曲の中に盛り込んだ一つの発見を有する大作だ。そこには緻密でいて幼稚な発想も行き交い、実験的でいてただの衝動ともとれるような音楽的感動が溶け合っている。私は後で聞いた口だが、この約50年前の作品で演奏者にエレクトリックギターと電子楽器・クラヴィオリンを含む「七人の奏者によるミクロコスモス」(黛敏郎作・1957)にとても近しい印象を持った。つまりは「六人編成のロックバンドによるミクロコスモス」ということだろうか。


奥田民生「OTRL」2010
OTRL(初回生産限定盤)(DVD付)

OTRL

OTRL

舞台上でアルバムレコーディングを行うというライブパフォーマンスで全国ツアーを敢行するという前代未聞のプロジェクトはパッケージされてしまえば他のアルバムとの違いは楽器の微妙な鳴り方くらいで、それほど特別な音響感覚を享受するというものではない、しかしその経緯を目の前で体験したリスナーにとっては間違いなく特別な響きをもたらすのだろう。ユニコーン時代からマルチプレイヤーぶりを発揮していた奥田氏のリアルな股旅を記録(録音)したシン・ライブレコーディングアルバム。


砂原良徳「liminal」2011
liminal(初回限定盤)(DVD付)

liminal

liminal

20世紀を総括した重要作「LOVEBEAT」から10年後のフルアルバムはその延長線上にありながらも全く趣向性を切り換えた、つまりは時代にコミットしたエレクトリックミュージック作品だった。それは後述の池田亮司が提示したような音響世界のカオス化を見据えたグリッチサウンドと近しくまた、前作で多用したビット操作によって極限まで匿名化したクリック音やボイスサンプルを張り巡らし、これまたフラット化の末期に起こったカオスムーブメントを予兆するようなサウンドメイキングを披露した。そこにはやはりスケールやコード、平均律や拍子という19世紀以前からある概念はそこはかとなく薄弱化している(オープニング曲が3拍子であることをエンジニアに指摘されて初めて気が付いたという)。以降のプロデュース活動やマスタリング業の専心ぶりから伺えるのはまさしく彼の音響そのものに向かう姿勢であって、もしかしたらそれらの音像処理を買って出ることで音の反省を続けているのかもしれない。本誌でのランクインは難しいだろうと思ったが、何人かの選者がリストアップしていた。


刀根康尚「Musica Simulacra」2011
ATAK016 MUSICA SIMULACRA

万葉集に掲載された4516首の歌を音響データとして換算するという構想から完成までに10年かかっていることから、これが果たしてテン年代における重要作なのか、そしてまた作品自体はCD-ROMによるデータであるという点でアルバムという扱いをしていいのかという愚問はさておき、そもそも作品のコンセプトを説明されてもその経緯はどこまでも抽象的な印象しか湧かないし、彼のフルクサス時代の活動のこともインタビューや写真くらいでしか確認することが出来ない。しかしながらその余剰的要素を取り払ったこの前衛作品における重要な点もやはり、多分に漏れずサウンドの先進性にある。これを全曲聞くのは至難の技であるが、リリース元のATAKオーナーである渋谷慶一郎氏がセレクトしたCDも付属しており、またそのセレクトアルバムのみをサブスクリプションでも聴取できる。この電子ノイズの羅列がアーリーエレクトロニクス期のロボットが喋る音(またはねずみが電線を齧ってショートした音)と決定的に違う点はそのサウンドにおける法則性の膨大さとそこから派生する無数の組み合わせが描くグルーヴの有無である。そのグルーヴなくしてこの和歌集を音読することは不可能である。そしてまたこの時代の音響技術によって生み出されたという事実がテン年代において重要であるということを物語っておりまたそれは、以降のポストエレクトロニカ的なムーブメントを興す上での一つの基準にも成り得ているのだと想像できる。


tomato star「GRAGE BAND CAMP」2012

tomatostar.bandcamp.com
私ならばこのタイトルを思い付いただけで舞い上がって有頂天になってしまいそうだが、私が重い腰を上げてレーベルを立ち上げる10年以上前から(最初のリリースがなんと1999年、個人的には私がレーベルを始める何年か前、あるラジオ番組のデモテープオーディションでその名を知った。彼は今でもその番組のオーディションコーナーの常連である。)Bandcampで自身の作品をリリースし続けているリアル孤高のアーティスト、トマトスター。まるで生活の一部でもあるかのようにハイペースでリリースされた膨大な作品の中でも私が心臓を深く抉られたアルバムがこれである。と言いながら今になってようやく購入したのでここに補足的にリストアップしたいと思う。何故だか今のうちに入手しておかないと後々聴けなくなるのではないかというあらぬ焦燥感に苛まされ、今回の購入に至る。タイトルに負けず内容もシニカルで軽やかなインストゥルメンタル作品。ガレージバンドに付属しているサンプルやプリセットのような音色をこれ見よがしに多用した一見ソフトのデモンストレーションのような構造だがその骨組みは明らかに異質でまるでトランプを積み上げたピラミッドの如く不安定な印象を受ける、実際のサウンドも細かいバイブレーションによって音が痙攣して聞こえる。良くも悪くもこの作家が持つアマチュアリズムのような精神が脱構築性を伴って結果的にセンスの塊として作品になったように感じる。これはエレクトロニカや電子音響シーンとは別の世界で生成された新たなグリッチサウンドだ。尚、この作品は2014年「SUPER GARAGE BAND CAMP」、2020年「ULTRA GARAGE BAND CAMP」と2度リモデルされている。
tomatostar.bandcamp.com
tomatostar.bandcamp.com


池田亮司「supercodex」2013
Supercodex

Supercodex

Supercodex

  • RyojiIkeda
  • エレクトロニック
  • ¥1528
90年代半ばには既にサイン派によるパルスとテクノ的なビート構造を掛け合わせた完璧なクリックハウスを完成させていた池田氏テン年代に発表した唯一のオリジナルアルバムはゼロ年代の二作品「Dataplex」「Test Pattern」に続く三部作の完結編と銘打たれているが、ジャケットのアートワークを含めて前二作とは少し意味合いの違うものに聴こえる。21世紀になって全てがフラット化した情報社会が再び解像度を増してカオス化していくという近未来を描いてみせたような、あらゆる倍音によって構成された個性を強制的に排除されゼロへ還元されてしまったグリッチノイズが再び1を形作って蠢く。その前年に初演されたアート、サウンドインスタレーション、映像、舞台芸術を融合させた「superposition」は未だにその全貌を知らない私が何を言えた義理もないが、まさしくダムタイプを引き継ぎながら自身の掲げる量子力学的音響の探究が結実した総合芸術ではないか。ソフト化を願うのみである。
www.youtube.com


電気グルーヴ「人間と動物」2013
人間と動物

本誌では次作「TROPICAL LOVE」を選出してる選者がちらほら見受けられたが、活動再開後の彼らの最重要作はこちらである。まず砂原良徳デザインによるジャケットカバーのパンダにはほぼ何の意味もない。そして文脈より仮歌の母音になるべく沿うような言葉選びがなされたというリリックのみ(歌詞カード)を音を取り払って鑑賞してみればすぐ気付かれるだろう、なんとアシッドハウスの文学化に成功しているのである。この意味性を削がれた言葉の羅列には左記のジャケットの抽象性と同じく歌のメロディーを捕捉する目的とは別の高揚性が発芽している。それを裏付けるかの如く次作では制作環境が簡素化し、これまでのアシッドハウス的なサウンドへの執着も減少しているように聴こえる。

www.uta-net.com

CMにも起用されたアルバムのリードシングル「Shamefule」。約4分の曲で歌われる歌詞はこれだけである。言葉を追っているだけでにやけてしまう珍妙さは一体どこからこみ上げるのだろう。昨今の韻を踏むが良し、世の中に不平不満をぶつけていれば良しとされる日本語ラッパーたちのリリックも是非同じように音を取り払って鑑賞してみてほしい。


矢野顕子矢野顕子忌野清志郎を歌う」2013
矢野顕子、忌野清志郎を歌う

本誌ではランクインどころか1票も見当たらなかったが見落としただけだと思いたい。カバーアルバムだからという点では小西康晴や民謡クルセイダーズが入っているし、何か他の理由で除外されたのだろうか。その辺りの事情を知らないから何とも言えないが、もし単純に誰の選出からも漏れてしまっただけだったしたら、よくぞこれをリストアップしていたと褒めて欲しいくらいだ。こういうものが抜け落ちるからいつの頃からか某誌はただの参考書になってしまった(被害妄想の激しい選者の誰かさんも補助くらいに思えと書いている)。制作ペース旺盛な矢野氏の他のテン年代アルバムももちろん必聴であるが、それにも増して、やはりピアノの弾き語りでオリジナルを凌駕するカバー演奏、加えて忌野清志郎の後期の作品を広くコンパイルしたという意義や「500マイル」「多摩蘭坂」でミニマムなアレンジを施した松本淳一の仕事もコンセプチュアルな意味合いを高めているように思う。そう、あえて全編弾き語りにしなかったことで何故かこのアルバムのコンセプトが明確化していることが特筆すべき点だ。意外にも全曲一人のアーティストのカバーアルバムというのもこれが初めてのようだ。ゼロ年代の超絶コラボユニット"yanokami"、テン年代の今作、そして既に次の年代(ニテン年代?)の重要作として新ユニット"やのとあがつま"による「Asteroid and Butterfly」が挙がっている。


shotahirama「cluster」2014
Cluster

このアルバムのプロトタイプとも言えるEP「post punk」、「Clampdown」は素材音もしくは曲を構成する具体音が辛うじて断片的に残された、もしくは施されたバージョンで発表された。この時期の彼が編み出した手法はハーシュともグリッチとも違う何らかのグルーヴを内包した超高速電子音を操る演奏法であり、あくまでその音が主旋律であると私は解釈しているが、それをわかりやすく伝えるためにこの2枚のEPを先行してリリースしたのではないだろうか。素材となったリズムマシンの音やサンプルボイスは逆転的に装飾音のようにあしらわれてそれをすり抜けるどころか衝突も恐れずに突き進む電子ノイズがまるで完璧な均整をもつガラスの破片のように飛沫化して乱反射し全く新しいハーモニィを作り上げる。そしてもはやshotahirama的としかいえない彼独自の電子音のみで構成されたアルバムが今作である。当初は配信のみでのリリースであったが徐々にこの先進的なサウンドにフォロワーが集まり翌年には近作をまとめたCDボックスセットの発売に至る。


坂本慎太郎「ナマで踊ろう」2014
ナマで踊ろう(初回盤)

90年代のレアグルーヴ復興以降、ゆらゆら帝国というロックバンドと共にそこに内包するミニマル性を模索し続けてきた坂本氏に一つの結実を見ることができるちょうどテン年代の始まりにバンドを解散した彼が二作目として発表したレアグルーヴを意訳したようなタイトルのこのアルバムは一聴してまずコーネリアスの1stアルバム「The First Question Award」を最少人数で再構築した様なイメージを持ったことからさしずめネオ渋谷系とでも宣伝文句を付けて更にはサカナクションや他にもそれらしいアーティストをまとめて一つのブームにしてしまっても良いのではないかといらぬ世話焼きをしてしまったものだが、本物の宣伝文も見事なセンテンスを用いていたのでここに引用しておこう。

全くトロピカルではないスチールギターが、底抜けに明るいバンジョーが、人類滅亡後の地球でむなしく鳴り響く

まるで破滅を傍観するようなメタ・キャッチコピー。思えば、トラットリア作品の帯文もどれもユニークで秀逸だった。やがて小山田、坂本両氏のコラボレーションが実現したことは言うまでもない。因みにその際に中原昌也のポストを引き継ぐデス渋谷系の筆頭候補はお察しの通りshotahiramaである。


椎名林檎「日出処」2014
日出処(通常盤)

後々聞いてみると高域がキツめのミックス、マスタリングは意図的なものなのか気になるところだが、デビュー作「無罪モラトリアム」以来の傑作と言える鮮烈さだ。作品ごとに起用する外部ミュージシャンの選定眼やプロデュース能力もここで爆発、特にバービーボーイズいまみちともたかに単なる編曲に留まらず補作曲を依頼する(結果的にそうなったのかもしれないが)柔軟性とセンスには脱帽である。これは新境地を求めた東京事変での創作活動においてもついぞ為し得なかったもので、それらを経て再びソロ作品として最も躍動的な瞬間をまとめ上げることに成功した軌跡とも言える。これ以降はシンボリックなイメージが先行し、NHKやオリンピックに呑み込まれていく。ここで気づかされるのは彼女がそこまでの作家であったとかいう安易な偏見や一方的な目方評価ではなく、椎名林檎をもってしても体制気質がこびり付いた日本の文化レベルは1ミリも向上しないという悲しい事実である。その上でもいたって彼女は自由でいるのだろうし、他にも2008年の林檎博の成功など、いくつものピークを迎えている。さて彼女や菊地成孔が夢想するキャバレーが現実化した未来、この国の文化はどうなっているのだろう。


dCprGフランツ・カフカ南アメリカ」2015
フランツ・カフカのサウスアメリカ

ということで未来のキャバレー建設計画を目論む菊地成孔率いる大所帯バンドによる活動再開後の二作目であり2021年現在、4月に解散することが決定してるからこれが最後のオリジナルアルバムということになった。私のような中途半端な教養ではこのバンドのポリリズムや高尚なテーマ性などを理解しきれないのが実情であるが、ただそれらはあくまでバンド内の共有言語でしかなく、リスナーに共用しようとしているのはもっと単純なグルーブだ。作り手気質と高慢が祟ってか私は長くこのグループの本質に気づくことができなかったわけだが、そんな個人的な見解はともかく再開後のサウンドを決定付けたとも言えるBABY METALのバックバンドのメンバーとしても名高い超絶テクニシャンである大村孝佳のギターはおそらく、再開後のライブにゲスト参加した元JUDY&MARYのギタリストTAKUYAの存在が影響しているかとも想像できるが、彼のアンサンブルを理解しないままアドリブで掻き毟るようなプレイからは1段階も2段階も踏み込んでおり、例えばキーボードと掛け合う難解なユニゾンプレイなどがこのアルバムでは見事に融和している。そしてそもそもこのバンド結成のきっかけはジャズのフュージョン・クロスオーバー初期の名曲である菊地雅章のCircle/Lineをカバーすることに端を発しているということから、菊池氏の70年代~80年代のデジタルに飲み込まれゆく低迷期ジャズへの2015年時点での最高水準の回答とも言える。ちなみに再開後の曲単位で言うと1曲目の「Ronald Reagan」と前作「Second Report from Iron Moutain USA」のマイルスデイビスのカバー曲"Duran"が出色だ。


METAFIVE「META」2016
META

META

META

本誌ではコーネリアスの久しぶりの新作が上位にあるが、私はその90年代を代表する作家たちが集ったこのグループのアルバムを重要視したい。元々は高橋幸宏のソロライブのために集められたバックバンドにこの名前を冠していたが高橋自身もメンバーとなって6人編成となった。中でもその重要性を高めたのはこの大仰なコラボレーションをバックに堂々と歌声を響かせたLEO今井の存在だろう。YMOと90年代アーティストの接続は既に円熟期を迎えていたがそこに新鮮な風を送り込んだのは間違いなく今井氏の声である。小山田の変拍子や幸宏氏のドラミング、砂原の図太いシンセサウンドにも負けない強靭なリズム感と声量、言葉の壁も超えてそのスキルを見事に活かし切ったLEO今井が爆発した作品である。同時に幸宏氏の前プロジェクトPUPAでは課題となったゼロ年以降のエレクトロニカとの乖離もこちらでは解消している。何よりも砂原氏がシンセベースを楽しそうに弾いているMVを観ると涙が溢れてくるのは私だけだろうか。


坂本龍一「async」2017
async

async

async

彼の闘病中に何が起こっていたか、よりも前作「Out of Noise」(2009)から今作までの世界を見るべきか、それは結果的にほぼテン年代を振り返るという作業になる。このアルバムは前作の余韻を残しながらもやはり一つの時代を越えている。世界が混沌とし、そして不毛な時代がやってきて我々はその空虚とどう向き合うかという岐路に達していることを、この音楽が物語っているようだ。それはある者には回顧録に聴こえ、ある者には葬送曲に、慰安のメロディに、静かな激励にも聴こえるのだろうか、そして安直ながらも人生のサウンドトラックとでも形容できそうな記憶の音響彫刻が目の前に立ち現れる。この時期の教授に密着したドキュメンタリー映画が同年公開されたが、その中でこのアルバムの制作過程を垣間見ることが出来る。往年のアナログシンセ、シンバルや銅鑼を弓で擦る音、ベランダでフィールドレコーディングした音、ピアノ、それらを制御するラップトップ、そしてその机の前には椅子の他に無造作にバランスボールが転がっている。彼はそのバランスボールに半強制的に体幹を意識させられながら腰を下ろしてプロフェット5を弾き始める。それがいつから置かれているのかわからないが、もしかしたらこれこそが10年越しの、または大病後の変化かもしれない。かく云う私が影響を受けたのはその部分ですぐに似たようなシルバーのバランスボールをネットで探して購入した。これが東京芸術大学を主席で卒業し、在学中からプロミュージシャンとして手腕を発揮し、やがて細野晴臣の誘いを受けYMOのメンバーとして世界的なアーティストとして知られ、「ラストエンペラー」の劇伴作品でグラミー賞を受賞し広義での現代音楽の中心的な存在として今も変わらずに活動し新たなモデルケースを産み続けている作曲家の制作現場なのかと改めて、そこで彼の音楽やその歴史を鑑賞させられるのであるが、それらがバランスボールに集約されて作られたのだとしたら、なるほど今回も筋が通ったアルバムなのだと納得せざるを得ない。


民謡クルセイダーズ「エコーズオブジャパン」2017
エコーズ・オブ・ジャパン

テン年代の一つの奇跡とも呼べようか。日本民謡にラテン、ジャマイカ音楽などこれぞとうよう的な混血音楽がさらに掛け合わされたハイブリットエキゾチカがここに。アレンジ、演奏、録音からミックスまで軽妙にメディア化したこのアルバムこそ奇跡的な存在。と録音陣を今一度確認してみれば、ミックスが元Dry&Heavyの内田直之氏であった。さらにはこのような一見企画もの、コミックバンド的なようで重要なグループやユニットが今までいくつも賑やかし扱いで終わってしまったのではと想像すると身の毛もよだつというものだ。例を挙げれば2019年に自身のこれまでの活動をまとめたベスト盤をリリースしたパーカッショニスト仙波清彦氏の大所帯バンド・はにわオールスターズの存在を知ったのも同年にたまたま観たライブ映像がきっかけだった(私が不勉強なだけかもしれないが)。

www.youtube.com
余談だがあなたはこのメンバー紹介動画を見てお気づきになるだろうか、錚々たるメンバーの中の斎藤ネコの存在に。そう、この大所帯プロジェクト(バンマスの仙波氏は白衣、メンバーはナースとパジャマで統一するというコンセプチャルな佇まい)は彼を経由して椎名林檎「Ringo EXPO 08」へ結実しているのである!


折坂悠太「平成」2018
平成

Heisei

Heisei

  • 折坂悠太
  • J-Pop
  • ¥1833
投票制によってランク付けした本誌ではこれが1位だったが、なるほど御誌らしい。個人的には前年の民謡クルセイダーズから折坂氏の登場まで中村とうようの血がどこかで再び沸点に達していたのだろうかと想像もしてしまう。当時も私は彼のポップス文化について書いた本などを読み返していたため一入その風潮に煽られたと記憶している。彼の歌唱法は一つの発明ではないかとさえ考える。様々なルーツを内包した新しいワールドミュージックが、とうようが言うところの混血音楽がここでまた生まれたのだろうか。本作は前作や他のEPよりもその度合いが強いが、その寛容性が音楽をまた軽やかにしている。


shotahirama「Rough House」2019
Rough House

Rough House

Rough House

  • shotahirama
  • エレクトロニック
  • ¥1528
不理解を超える理解。2014年に独自の電子ノイズを携えてポストエレクトロニカ的なムーブメントを引き起こした後、再び既存のビート、特にダブビートを取り入れた作品シリーズなどを発表したshotahiramaがテン年代を経て辿り着いたのはオールドスクールなヒップホップを今あえて掘り起こし、そのマテリアルを一種のノイズとして制御してしまったようなクリックホップ(こう形容すればある意味Mo'Waxをはじめとするトリップホップをも巻き込む)とも言うべきトラック集で、さしずめブレイクビーツの標本採集のような、とても大勢の前でダンスを誘導するためのビートとは思えない偏執的な妖気も漂う代物で、何よりも数年前に完成させた自身の確固たるスタイルを捨てて臨んでいることに驚愕し、また、まるでインストヒップホップを更に形骸化させてしまったようないわゆる音響のカラオケ化という形容はこの作品に対する理解を超えた領域で降って湧いたもので、私の新作シリーズもここから発想を得たものであることも告白しておこう。同時に元祖デス渋谷系アーティスト・中原昌也氏の変名ユニット"Hair Stylistics"のビートメイキングにも共鳴しそうであることから、ここでネオ・デス渋谷系筆頭という妄想が多少なりとも現実味を帯びたことも記しておこう。翌年に更にドープ化させた「Stay on the Light」をリリース。また今月には更にこの手法をライブレコーディングで1発録りした音源を集めたアルバムをリリース。


<後記>
現在の私の最大の研究対象となっているクロマニョンズの作品は恥ずかしながら完全なる後追いのため、まだリストに加えるべきかも判断できていないが、彼らがゼロ年代後半からモノラル録音を採用しているという点が非常に興味深くまた、リリースの基盤はあくまでアナログ盤であってCDはアナログ盤をスピーカーで鳴らしている音を録音しているという事実にも驚嘆し開いた口が塞がらないままの生活を余儀なくされていることもここに記しておこう。そして私の記憶が正しければ、御誌の2020年ベストアルバムの中にクロマニョンズの最新作「MUD SHAKES」が選出されていたことが、私が彼らの作品を聞き返すきっかけになったはずであることもここに記しておこう。そして少し渋谷系のくだりで話題になった中原昌也氏のテン年代の作品群については、まず膨大な音源数を網羅できていない、ある種の批評性を超越している、時代間隔も超越しているという理由で全て選外扱いとさせていただいた(そんなこと言い出したらメルツバウは?とかキリがなくなるので諸々割愛)。もっともここに挙げた作品はあくまでこの年代における重要度の高い作品というだけであって必聴作品は星の数ほどあるということも付け加えておこう。もう一つおまけに我々川越ニューサウンドの作品はほぼ全てテン年代の邦楽アルバムであるということもここに記しておいても差し支えないはずだ。なぜならこのブログは私のブログだからだ。

MUD SHAKES (通常盤) (特典なし) Dynamic Hate SURROUNDLY

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