KAWAGOE NEW SOUNDS

Brand New Electronic & Acoustic Music from Kawagoe Street , Japan..

ソロ活動10周年特別寄稿・庭野孝之のすべりようのない、酒を飲むと読めない、怖くはないけどちょっと鼻につくかもしれない、スキとかキライの問題じゃない◯△▢な話

つい2年前に我がレーベル川越ニューサウンドの10周年を振り返ったばかり(しかも10年目と10周年を間違えて早めにはしゃいでしまった)ではあるが、今年の10月で自身のソロアルバムをリリースして10年になる。そんな折につけて、いわゆるコロナ禍と同時に個人的な作品リリース禍が重なり、そしてその過剰な創作活動にもそろそろ限界が近づいていることを悟りながらぼんやりと自分の10年を掘り返してみようという算段をしたところである。
10周年と言っておきながらその実、私はこのレーベルを始める前にも自主制作でソロアルバムを何枚かリリースしている。それはレーベル設立の2010年から更に遡ること7年前のこと、学生時代から活動を続けていたバンドの解散を余儀なくされたことで、私は苦肉の策としてソロ活動を始めたのであるが、すんなりとソロ活動に転じられたのは高校時代にテクノの洗礼を受けシーケンサーの打ち込みやMTRによるいわゆる宅録を覚え、また音楽系の短大へ進みDTM(当時の主流ソフトはVISION)やスタジオ(当時のスタジオのメイン録音メディアはHi8 - 8mmビデオテープでマルチトラック録音する)での音楽制作などのノウハウを学んでいたおかげだろう。
ならば厳密なソロ活動歴は親に強請って買ってもらったKORGのX3(同社のM1を買いに行ったらすでに生産終了、音色やシーケンサーのトラック数が増えたX3を店員さんに勧められる)で打ち込みを覚え、出来た曲をカセットテープにダビングし、クラスメイトに聞かせていた高校時代(16~7歳)から数えると約30年ということになる。ソロ活動に限ってみれば10年を振り返るのも30年を振り返るのも同じようなもので、その伝達方法がカセットテープからCD(水面下でMD)に、そしてストリーミングへと変化しただけ、兎にも角にも曲が出来たらどこかに収めて誰かに聞いてもらう。規模の大小はあるものの実際に私の作品を聞いている人数はいつの頃も大差ないかもしれない。あの頃も今も私の音楽を一番聞いているのはおそらく私自身だろう。
さてギターやエレクトロニクスによる即興ユニットmetaphoric名義で2枚目のアルバムをリリースした翌年、なぜ私はソロアルバムをリリースするに到ったのか、これも今から約20年前にソロ活動を始めた動機と似たようなものでつまりはユニットの活動が一段落してしまったため、このレーベルを継続するには一人で何かを作るしかなかった。私は一種の窮地に追い込まれるものの何故かそこで腐らずにレーベルの方針として年に1枚はアルバムをリリースするという公約を設けた。いやその方針を決める前にソロアルバムの制作に取り掛かっていたような気もするし、きっとある程度リリースまでの目処が立っていたのだろう。
思えば約30年前もそうだった。中学三年生の時にギターを弾き始めた私は高校でバンドを組もうと決めていたのだが、80年代からのバンドブームが終息した頃だったので学校には軽音部も存在せず、クラスに一人だけいたギター青年(私よりギターが上手くてさらに洋楽などにも詳しく一歩先を行く存在だった)は既にバンド結成済み、他にも同じような境遇の同級生はいたが趣味が合わなかったり(そもそもギターはいるがベースとドラムがいなかったり)とバンド作りは困難を極めていた。そんな時(1993年)に地元のCD屋で目に留まったのが電気グルーヴの「VITAMIN」だった。文字通りこれを聞いた私の体に電気がビリビリ走り、昨日までの自分を笑ったかと思うとそのままテクノブームの波に吞み込まれ一人で曲を作り上げる術を学んだ。レーベル発足からソロやいくつかのユニットでの制作を経て川越ニューサウンドは今や完全に私のプライベートレーベルとして稼働しているわけだが、私は音楽的人生の岐路に立つ時にいつも一人なのだと改めて思い知るのであった。
とはいえ各時代においてそれなりに同士と呼べるような音楽仲間との交流があったおかげで今こうして性懲りもなく創作活動を続けていられるのも確かである。レーベルを設立した2010年から2016年までの間に7枚のアルバムをリリースしたがそのうちの4枚はユニットでの作品だったし、翌年には私が全く制作に関わっていない作品をリリースした。わがレーベルのカタログに携わってくれた音楽家はもちろん、これまで接してきた全ての人に私は音楽的な影響を受けてきただろう。なぜなら楽器を弾いたり作曲をしない人でも音楽の話をしなかった人はいないからだ。そこには必ず新しい発見があったはずだ。そういった経験が私の音楽的素養であり、またその素養や知識、技術を放棄した作曲法を編み出すことが私の悦びだったのかもしれない。
2012年から2016年の間にリリースした3枚のソロアルバムで私はこれまでに模索してきた作曲手法を段階的に解放させた。最初のアルバム「Surroundly」では、その前のmetaphoricのアルバム制作において試みたダブやエディットの手法を突き詰め、2枚目の「Elektricity」ではその手法における偶発的な要素を制御することでハーモニーやビートを明確化し3枚目の「Beatifically」ではそれらを意図的に制御不能になるまで増幅させ、その不確定要素=グリッチのみで構成される音響作品へと転化させた。この三部作の制作過程で私の作曲技法はほぼ確立された。2019年にリリースしたアルバム「Contemporally」は左記の三部作を踏襲した作品だがその間に制作環境(DAWソフトや周辺機器など)を一新したことで今一度その手法を再構築する中でデフォルメしていったものである。平成が終わろうとするこの時期にリリース様式も変化(これまでのCDリリースを取りやめて配信のみに)し、翌年には生活様式もまるで違うものになった。それは疫病蔓延による世界的な大恐慌のせいでもあるが、そうなる直前に意図的に変化させたものがあった。
2020年の2月、私はこれまでで一番長く勤めていた職場を去り、創作活動に専念する準備を始めた。当初の目論見はこつこつと貯めた資金を元手にライブやイベントを行ったりソロに関わらず様々な作品制作に携わりながらレーベルとして音楽家として何らかのシーン形成に加担するというものであった。もちろんそれまでも同じような目論見が無かったわけではないが、よりその目的意識を高めるために生活環境を整えたかった。手始めにレーベル10周年を記念したイベントや新たなユニットなどでの活動など具体的な案件も進めていたのだが、ほどなくして世界が一変してしまった。なんと私だけではなく日本中の人が強制的に引きこもりになった。そう、ここでまた私は自分以外との音楽的コネクションを切断せざるを得ない状況に置かれることになる。ただでさえそのコネクションは微々たるものであった私にこの世界危機は泣き面に蜂である。いや、そもそも引きこもるつもりであったからその環境の変化はあまり影響していないとも考えられるが、現代を生きている中でCOVID-19は関係ないと言える人間などいるだろうか。こうしてまた私は音楽人生四回目の岐路に一人で立っていた。はじまりはいつもソロ、である。
レーベル10周年の賑やかしもほどほどに、世の中が不毛時代へ突入するのを横目に私は四たび(?)ソロでの新たな活動方針を打ち立てようとしていた。それは今までの技法や手法などに囚われずに様々な観点で広義の電子音楽作品を作ろうというもので、それが前時代的であろうと前衛的であろうと多義的に思えるものならば何らかの発見があるのではないかという客観的な興味も相俟っていた。この時に作っていたのが(実のところ「DJやクラブ向けにダンストラックのようなものを作っては?」というある人物の助言をもとにしたもので)作品シリーズ"ANOTA MUSICAL PIECES"の1作目「ANOTA #1」の1曲目"I'm Living in Duplex Apartment 1"であり、これが後のリリースラッシュへの起爆剤となった。
いったい何が私の創作意欲を駆り立てたのかは定かではないが、ANOTAというコンセプトを思い付いてANOTA宣言なるものを書き始めた頃にはもう多様性だの作品の存在意義だのはどうでもよくなっていて、ただ日々の喧騒を忘れ、創作と妄想を交錯させながら思いのままに打ち込み演奏し録音することの悦びとその日々への感謝や未来への希望と絶望、理想郷と諦めの境地、生と死、それらにまつわる様々な情報が高速で行き交いフィクションがノンフィクション化する被仮想世界=俗世間とは平行線を辿るように自分の音楽歴史と交差する時間がただただ愛おしく、すなわちそんな自分を愛でるように俯瞰しながらそれ以外の時間は常に好きなもの(他人の音楽、映画、将棋、囲碁、その他端末を経由して得られるあらゆる情報という名の芸術)に接していたらいつのまにか二年半という時間が経過していた。だがこの自由自適な日々は結果的に生産性を欠き、私がどうでもいいと思う以上に世間からどうでもよく思われ、そもそも何の実績も経験も伴わないアマチュア風情が音楽家を気取ってみたところで、どれだけ旺盛な創作意欲を堅持しようが、素人に毛が生えた程度の、趣味が高じてというしかない、よしんばその一つでも批評してみれば、こいつは以前にも増して自分はアーティストとして生きるために音楽を作っているなどと思い上がり、ではこれも聞け、あれも聞いて感想を述べよなどと厚かましく出てこられ、あわよくば自分の創作活動のために経済的な援助も考慮せよなどと強欲な態度をとるのではなどと勘繰られて腫物のように扱われるのみであるが、それを察してもなお湧き上がる意欲と有り余る時間が私を作品制作へ駆り立てて止まなかったのは事実であり、それとは裏腹に迫りくる死の期限への不安、これが最後の作品になるかもしれないという終末感をも抱えながらの作業を繰り返しつつ2020年5月からこれまでにカタログ数にして40の作品をリリースするに至ったことは実に望外な成果である。
2020年5月から約1年かけてグラデーションを描くように地続きに連なるエレクトロ絵巻"ANOTA MUSICAL PIECES"と続編"ANOTA ANONYMAOUS MODULE"を作り終えた頃、私はとある日本映画に感銘を受ける。そして日本映画の歴史を踏襲するように溝口健二の諸作に心打たれるのだった。彼の作品に魅せられてから、たいして意味も分からずに観ていたロシア映画ゴダールなどが全く映画として無効に思えるほどの錯覚に陥った。溝口作品にはトーキー以後の全てがそこに集約されていた。見事に現代映画は彼の中で完結していた。彼以降の世界中の映画は全てその複製なのだと気付くまでに私は40年以上を無駄にしてしまった。せめて30代の前半までには彼を理解しておきたかった。同じく40を超えてから興味を抱いた将棋にも同じような後悔の念が付いて回っている。アメリカのシットコム集大成としての傑作ドラマ「モダンファミリー」の存在も最終シーズンを終えた翌年に知った(もちろんその原典へと遡りルシルボールに出会ったのもつい最近)。こんな凄いものの存在さえも知らず平行線を辿るようにレーベル活動を続けながら、やれ未知のグルーヴだの最新型のビートメイキングだのと先進音楽家を気取っていた自分を今はもう笑うしかない(昨日までの自分を再び笑う)。そのような後悔は今に始まったことではないがやはりこの年齢になると殊更になぜ今までこれを知らなかったのかという思いが強まることは否めない。それが起因となったのか、2021年の5月から始めた新たな作品シリーズのコンセプトは私が生まれた以後に作られた日本映画やテレビドラマと電子音楽を関連付けてみるというものだった。言わずもがなタイトルに選んだ作品は全て私の思い入れのあるものばかりだが、それと楽曲には何の関連性もない。その映画のために作った曲でもなければ曲調がそれらしいというわけでもない。ただ無作為に選んだ映画やドラマのタイトルを順に当てがったに過ぎない。いわばそれらはナンバリングと同等でただの記号である。これは楽曲自体がシンプルで音数も絞られた記号的な作風であったことと同時に私が今まで見聞きしてきたものが私が生まれる前に作られた「マリヤのお雪」や「祇園の姉妹」や「夜の女たち」や「雪夫人絵図」や「祇園囃子」や「噂の女」や「近松物語」や「赤線地帯」などに回帰してしまう前にその名前だけでも私の曲に関連付けることで目に見える形に残しておきたかったという個人的な要因が重なった故の行為であるが、結果的には今でも「結婚できない男」や佐々木昭一郎の諸作など一部は私の中で左記の映画たちに回帰されないままであることもここに記しておこう。
その後ANOTA作品のリイシューを挟んで新たに取り組んだ「Street of Shame 赤線地帯」はその頃に出てきたエレクトロ系新興ビートの自己解釈で、直接的には前年に発表されたSpeaker Musicの「Black Nationalist Sonic Weaponry」の凄まじいドラミングに影響を受けたものである。加えてその作者も大いに関心を寄せているであろうBlack Lives Matterに端を発する人種差別問題に対する様々な抗議運動にも強く感銘を受けたことも相俟って図らずもジャケットが黒を基調としたデザインになり、その頃繰り返し鑑賞していた「赤線地帯」をアルバムのタイトルに選んだのもただの偶然である。因みに今作は左記のリイシュー「SOUND OF BUSINESS」制作後から幾度となくビートの模索を続けていたもので「超高速!電子音楽」シリーズの水面下でも同時に制作していた。その片鱗が同シリーズのEP「超高速!電子音楽SS」で確認できるが、これは何を隠そう「Street of Shame 赤線地帯」の楽曲として制作していたものだったが構造や音色が同シリーズに沿っていたため集大成的なアルバム「超高速!電子音楽 リターンズ」発表の前にEPを一つ入れ込んだのである。
「SOUND OF BUSINESS」と「赤線地帯」は自信作だった。現代調のビートメイキングに独自の解釈を込めて、たおやか且つスタイリッシュなエレクトロ作品として一定の水準は超えただろうと自負していた。だがやはり作品は作るだけでは何も起こらない(そもそも自己満足かもしれない)。それらを最適化しパッケージ化しコンテンツ化しなくては経済的には無益な代物だ。稀に口コミで広がったなどと言われるものも厳密には口コミを利用したに過ぎず、それは口コミで広がったという事実を宣伝文句に付け加えていることからも明らかである。私はその最も社会的と言える原理に真っ向から向き合えずにこれまで生きてきた。それは世間的に見れば労働を拒否し学芸を疎かにし何よりも人との関りから逃げてきたことになるのだろう。その反面ただ作曲することで何らかの見返りを求めて止まない理想主義に溺れ、自虐と憐憫を繰り返し、私の作るものなど誰にも受け入れられない、作品と人は常に関連付けられ作り手はどういう人間でどのような経歴を持っているのか、その作品は誰の手によって斡旋されどのような受け手にどうやって届けられるのか、それらを複合的に見積もって精査されなければ存在さえ認められないのであるなどと当たり前のことをさも非道な行為であるかのように喚き立て、己の不遇さを呪いながらもいつか自分の気が付かない所で作品だけがそのようなネットワークを潜り抜けて未知なる受け手を開拓し始めるかもしれないと期待し、それが叶わぬのならいっそ野垂れ死んでしまおうと自暴自棄を装いつつも、いつまでこうしていられるのかと預金残高を何度も確認するような見切りも目処も付けられない日々の中で私はそんな実体の存在も危うい小さな鬱憤を胸の内に秘めながら、それでもほつれかけた創作の糸を見つけては手繰り寄せ、端切れと端切れのほころびを繕うような作曲をまた始めているのである。
2022年の元旦にリリースした「2022」はそのような私の胸の内に蠢く怒りや恐れ、また頭の中で思い描かれる理想や予感を具現化したような楽曲群で、まさに端切れのような断片を繋ぎ合わせた、これ以降の私自身や世の中へ宛てたサウンドトラックともいえる作品になった。音色やビートよりも頭に浮かんだメロディやコードをスケッチすることから始めた私の中では稀有な過程を踏む作品である。サウンドトラックといえばアノタシリーズの中でも架空のゾンビ映画のためのサウンドラックアルバム「ANOTA #10 TECHNO OF THE DEAD - Original Motion Picture Soundtrack」を作ったが、昨今の劇伴業界は配信映像作品の激増によって一部では同じような音源を組み合わせただけの粗悪なものも溢れているといった現状も伺えると同時に興味深いものも増えている。かくいう私のそれもどちらかといえば亜流に含まれるのだろうが、そのような状況を羨んだ末の蛮行であったと自覚している。「2022」はそんな亜流の劇伴を想定したものではないが、現実世界そのものを一つの物語と捉え、まだ書き進められていない少し先のことを構想してみようという発想に突き動かされた組曲のような作品を目指したものである。結果的に左記の亜流劇伴との明確な違いを指摘できるとしたら、音そのものではなくコンセプトやストーリーの違いくらいかもしれないが、「TECHNO OF THE DEAD」が文字通り映像の補助的なトラック集だとしたら「2022」は曲そのものが本編であり、映像があるとするならそちらが楽曲の補助的なイメージという扱いになるだろう。ならばそれはサウンドトラックとは呼べないのかもしれないが、きっとこの楽曲たちは様々な場面で様々な人たちのテーマとして存在するのであってアルバム全体が物語である上にそれは誰にでも起こり得るような可能性を孕んだ社会生活におけるアンチテーゼとして機能たり得るものなのではないかと思う。慣れない作風とはいえなかなかミックスなどがうまくいかなかったが手間暇かけて何度も調整を繰り返した甲斐もあり、かなりの力作になった(満を持せば持すほどその反応の無さが身に染みる)。
これで駄目なら、これでも状況が変わらないようならと作品をリリースする度に一応覚悟はしてみるのだが、それは決して自分に見切りを付けるとか諦めるという類の覚悟ではなく、もうこれ以上新しい作品のアイデアは出てこないだろうという己の限界を垣間見る瞬間にまた立ち会うであろうという意味での覚悟なわけだが、気が付けばまた次の作品のことを考えたりスケッチ段階のデータを開いてみたり過去の楽曲のデータを弄ってみたりを繰り返しているうちにこの二年半で乱作とも呼べるほど多くの作品を送り出してきた。これだけハイペースで作品を出している音楽家といえば私かサムゲンデルくらいだろう。
現状では最後の作品シリーズとなる"Dance and Living Music for Living Dead"も構想に限って言えば他のシリーズやアルバム制作の水面下で長いこと模索していたものでビートで括れば「SOUND OF BUSINESS」や「Street of Shame 赤線地帯」と関連している。キックドラムのみで成立させるというアイデア自体ならかなり遡って高校時代の打ち込みを覚えた時期にイーブンキックのループだけを延々と聞いていたり過剰にディストーションやディレイで変調させたりしていた(キックだけで白飯三杯はいけた)という記憶に行き当たるが、その時に考えたタイトルは"キックだけ鳴っていればいい (All You Need is Kick)"だった(英題は今付けた)。そのような幼稚な発想にはそれなりの教養や技術が必要不可欠なのだろうが私にそちらは不十分であるが故に時間をかけて地道な調整を繰り返すしかないのであるが、その調整はあらぬ方向へ進み最終的にキック音源を加工していろいろな音を作るという非生産の極みのような技法へと発展していった(「Demiboy + Demigirl : Variations On Dance and Living Music for Living More」)。このシリーズのコンセプトはゾンビに聴かせる音楽またはゾンビを躍らせるための音楽だったが、そのアルバムはコンセプトから逸脱して番外編のようになってしまった。そもそも私は何故ゾンビと自分の音楽を関連付けたがるのだろう。架空のゾンビ映画のサントラはまだ分かるが、ゾンビのための音楽というのは少々飛躍が過ぎるのではないか。おそらくこのような趣向には私の音楽に対する受け手の不理解、無関心への恐怖や不信感が深く関わっているのだろう。もはや私の作品は生身の人間の耳には届かない、ならばこれからは自分の音楽を屍者に捧げることにしよう。思考を持たない屍者の聴覚を刺激し且つ体が無意識に反応するようなグルーヴを模索しようという世捨て人めいた志向がまだ微かに持て余す創作意欲と共鳴したのである(何とうらぶれた芸術であることか、このような貧相な企みで作られた音楽などセレブ至上のショウビズ市場から無視されて然るべきだ!)。そういう意味では同時期に制作していた「2022」は希望的観測を今シリーズは絶望的観念を持つ対照的な作品と言える。
「既成事実という名のディスコグラフィをでっち上げろ!」
川越ニューサウンドの運営を本格化し多くの作品をリリースしたのは全てこの上っ面を重んじたような愚かな野望のためと言っても過言ではない。そういう意味では当初の想定以上の体裁が整ったことになるがその実、30半ばになってようやくリリースしたソロアルバムはギターのアンプシミュレート用プラグインエフェクトに過剰に変調された実態の見えないダブエレクトロニクス、40を過ぎてから四つ打ちやハウスビートを持ち出し、かと思えば終いにはキックを変調させているだけの作品を作り上げるなど予想だにしないものが出来上がった。つまり私をめぐる10年とはテクノを偏愛しGuitarRigを偏愛し屍者を偏愛し挙句の果てに己を偏愛し続けた10年であり、またハウスを曲解しラップトップを曲解し生者を曲解し挙句の果てに己を曲解した10年だった。10周年、三部作、作品シリーズ、または意味不明のマニフェストなどを掲げたり何かと括りやコンセプトで自分の作った曲を関連付けしたがるのは、音楽そのもので表現したいものや伝えたいメッセージ、テーマなどが皆無であるが故の悪癖でしかないのだが、その悪癖を以てして確固たる既成事実を築き上げ、それがあわよくばこれからも続くであろう不毛時代を生き抜くための、なるべく厳かに慎ましく今を静かにやり過ごすための肥やしとなることを願いつつも、そのような結果には到底及ばず、元々あった肥やしさえも底を尽きようとしている現状にはいささかの無念は否めないものの、かといって何か他の方法で打開しようなどという気概も一切認められず、ただ時の過ぎゆくままにこの身を任せ、本当に立ち行かなくなった瞬間の己の心情を想像しながら躁鬱を繰り返し、やはりただ時の流れに身を任せ一瞬とも永遠ともとれるような余剰の日々を丼勘定で算出し更なる既成事実をでっち上げるための算段をまた始めるのである。
ここまで読んでいただいた奇特な方で私の作品について何か少しでも批評文などを寄せていただける有志がいらっしゃればご一報いただけると幸いです。