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私ならばこのタイトルを思い付いただけで舞い上がって有頂天になってしまいそうだが、私が重い腰を上げてレーベルを立ち上げる10年以上前から(最初のリリースがなんと1999年、個人的には私がレーベルを始める何年か前、あるラジオ番組のデモテープオーディションでその名を知った。彼は今でもその番組のオーディションコーナーの常連である。)Bandcampで自身の作品をリリースし続けているリアル孤高のアーティスト、トマトスター。まるで生活の一部でもあるかのようにハイペースでリリースされた膨大な作品の中でも私が心臓を深く抉られたアルバムがこれである。と言いながら今になってようやく購入したのでここに補足的にリストアップしたいと思う。何故だか今のうちに入手しておかないと後々聴けなくなるのではないかというあらぬ焦燥感に苛まされ、今回の購入に至る。タイトルに負けず内容もシニカルで軽やかなインストゥルメンタル作品。ガレージバンドに付属しているサンプルやプリセットのような音色をこれ見よがしに多用した一見ソフトのデモンストレーションのような構造だがその骨組みは明らかに異質でまるでトランプを積み上げたピラミッドの如く不安定な印象を受ける、実際のサウンドも細かいバイブレーションによって音が痙攣して聞こえる。良くも悪くもこの作家が持つアマチュアリズムのような精神が脱構築性を伴って結果的にセンスの塊として作品になったように感じる。これはエレクトロニカや電子音響シーンとは別の世界で生成された新たなグリッチサウンドだ。尚、この作品は2014年「SUPER GARAGE BAND CAMP」、2020年「ULTRA GARAGE BAND CAMP」と2度リモデルされている。 tomatostar.bandcamp.com tomatostar.bandcamp.com
本誌ではランクインどころか1票も見当たらなかったが見落としただけだと思いたい。カバーアルバムだからという点では小西康晴や民謡クルセイダーズが入っているし、何か他の理由で除外されたのだろうか。その辺りの事情を知らないから何とも言えないが、もし単純に誰の選出からも漏れてしまっただけだったしたら、よくぞこれをリストアップしていたと褒めて欲しいくらいだ。こういうものが抜け落ちるからいつの頃からか某誌はただの参考書になってしまった(被害妄想の激しい選者の誰かさんも補助くらいに思えと書いている)。制作ペース旺盛な矢野氏の他のテン年代アルバムももちろん必聴であるが、それにも増して、やはりピアノの弾き語りでオリジナルを凌駕するカバー演奏、加えて忌野清志郎の後期の作品を広くコンパイルしたという意義や「500マイル」「多摩蘭坂」でミニマムなアレンジを施した松本淳一の仕事もコンセプチュアルな意味合いを高めているように思う。そう、あえて全編弾き語りにしなかったことで何故かこのアルバムのコンセプトが明確化していることが特筆すべき点だ。意外にも全曲一人のアーティストのカバーアルバムというのもこれが初めてのようだ。ゼロ年代の超絶コラボユニット"yanokami"、テン年代の今作、そして既に次の年代(ニテン年代?)の重要作として新ユニット"やのとあがつま"による「Asteroid and Butterfly」が挙がっている。
90年代のレアグルーヴ復興以降、ゆらゆら帝国というロックバンドと共にそこに内包するミニマル性を模索し続けてきた坂本氏に一つの結実を見ることができるちょうどテン年代の始まりにバンドを解散した彼が二作目として発表したレアグルーヴを意訳したようなタイトルのこのアルバムは一聴してまずコーネリアスの1stアルバム「The First Question Award」を最少人数で再構築した様なイメージを持ったことからさしずめネオ渋谷系とでも宣伝文句を付けて更にはサカナクションや他にもそれらしいアーティストをまとめて一つのブームにしてしまっても良いのではないかといらぬ世話焼きをしてしまったものだが、本物の宣伝文も見事なセンテンスを用いていたのでここに引用しておこう。
ということで未来のキャバレー建設計画を目論む菊地成孔率いる大所帯バンドによる活動再開後の二作目であり2021年現在、4月に解散することが決定してるからこれが最後のオリジナルアルバムということになった。私のような中途半端な教養ではこのバンドのポリリズムや高尚なテーマ性などを理解しきれないのが実情であるが、ただそれらはあくまでバンド内の共有言語でしかなく、リスナーに共用しようとしているのはもっと単純なグルーブだ。作り手気質と高慢が祟ってか私は長くこのグループの本質に気づくことができなかったわけだが、そんな個人的な見解はともかく再開後のサウンドを決定付けたとも言えるBABY METALのバックバンドのメンバーとしても名高い超絶テクニシャンである大村孝佳のギターはおそらく、再開後のライブにゲスト参加した元JUDY&MARYのギタリストTAKUYAの存在が影響しているかとも想像できるが、彼のアンサンブルを理解しないままアドリブで掻き毟るようなプレイからは1段階も2段階も踏み込んでおり、例えばキーボードと掛け合う難解なユニゾンプレイなどがこのアルバムでは見事に融和している。そしてそもそもこのバンド結成のきっかけはジャズのフュージョン・クロスオーバー初期の名曲である菊地雅章のCircle/Lineをカバーすることに端を発しているということから、菊池氏の70年代~80年代のデジタルに飲み込まれゆく低迷期ジャズへの2015年時点での最高水準の回答とも言える。ちなみに再開後の曲単位で言うと1曲目の「Ronald Reagan」と前作「Second Report from Iron Moutain USA」のマイルスデイビスのカバー曲"Duran"が出色だ。
彼の闘病中に何が起こっていたか、よりも前作「Out of Noise」(2009)から今作までの世界を見るべきか、それは結果的にほぼテン年代を振り返るという作業になる。このアルバムは前作の余韻を残しながらもやはり一つの時代を越えている。世界が混沌とし、そして不毛な時代がやってきて我々はその空虚とどう向き合うかという岐路に達していることを、この音楽が物語っているようだ。それはある者には回顧録に聴こえ、ある者には葬送曲に、慰安のメロディに、静かな激励にも聴こえるのだろうか、そして安直ながらも人生のサウンドトラックとでも形容できそうな記憶の音響彫刻が目の前に立ち現れる。この時期の教授に密着したドキュメンタリー映画が同年公開されたが、その中でこのアルバムの制作過程を垣間見ることが出来る。往年のアナログシンセ、シンバルや銅鑼を弓で擦る音、ベランダでフィールドレコーディングした音、ピアノ、それらを制御するラップトップ、そしてその机の前には椅子の他に無造作にバランスボールが転がっている。彼はそのバランスボールに半強制的に体幹を意識させられながら腰を下ろしてプロフェット5を弾き始める。それがいつから置かれているのかわからないが、もしかしたらこれこそが10年越しの、または大病後の変化かもしれない。かく云う私が影響を受けたのはその部分ですぐに似たようなシルバーのバランスボールをネットで探して購入した。これが東京芸術大学を主席で卒業し、在学中からプロミュージシャンとして手腕を発揮し、やがて細野晴臣の誘いを受けYMOのメンバーとして世界的なアーティストとして知られ、「ラストエンペラー」の劇伴作品でグラミー賞を受賞し広義での現代音楽の中心的な存在として今も変わらずに活動し新たなモデルケースを産み続けている作曲家の制作現場なのかと改めて、そこで彼の音楽やその歴史を鑑賞させられるのであるが、それらがバランスボールに集約されて作られたのだとしたら、なるほど今回も筋が通ったアルバムなのだと納得せざるを得ない。
不理解を超える理解。2014年に独自の電子ノイズを携えてポストエレクトロニカ的なムーブメントを引き起こした後、再び既存のビート、特にダブビートを取り入れた作品シリーズなどを発表したshotahiramaがテン年代を経て辿り着いたのはオールドスクールなヒップホップを今あえて掘り起こし、そのマテリアルを一種のノイズとして制御してしまったようなクリックホップ(こう形容すればある意味Mo'Waxをはじめとするトリップホップをも巻き込む)とも言うべきトラック集で、さしずめブレイクビーツの標本採集のような、とても大勢の前でダンスを誘導するためのビートとは思えない偏執的な妖気も漂う代物で、何よりも数年前に完成させた自身の確固たるスタイルを捨てて臨んでいることに驚愕し、また、まるでインストヒップホップを更に形骸化させてしまったようないわゆる音響のカラオケ化という形容はこの作品に対する理解を超えた領域で降って湧いたもので、私の新作シリーズもここから発想を得たものであることも告白しておこう。同時に元祖デス渋谷系アーティスト・中原昌也氏の変名ユニット"Hair Stylistics"のビートメイキングにも共鳴しそうであることから、ここでネオ・デス渋谷系筆頭という妄想が多少なりとも現実味を帯びたことも記しておこう。翌年に更にドープ化させた「Stay on the Light」をリリース。また今月には更にこの手法をライブレコーディングで1発録りした音源を集めたアルバムをリリース。